遠く離れていても、心はいつも一緒です。宝物を沢山置いていってくれてありがとう。

提供ご家族:60代男性の奥様より

もって一年、早くて三ヶ月、と主治医に告げられた時、映し出された病巣を見つめ、しばらく言葉が出ませんでした。三年前の五月の連休明け、病室にいる主人に内緒で、私は検査結果の説明を一人で受けました。

二女があの年の三月末、遠距離恋愛を実らせて結婚式を挙げました。バージンロードを腕を組み、嬉しそうに歩いた父娘に、四ヶ月後に大きな試練が待ち受けているとは、誰ひとり思いもつきませんでした。

長い単身赴任の後、定年を半年後に控えた、平成15年6月、長男と二女、そして私が最後の赴任地の広島に、主人を迎えに行きました。子会社に半年間出向となり、その後社員となり定年後の生きがいを見つけた約一年後の出来事でした。

平成16年7月18日、福井地方は未曽有の豪雨に見舞われました。足羽川の氾濫の時、住宅関係の仕事に就いていた時、病室に持ち込んだパソコンで会社とやりとりをしていた姿を思い出します。あの20日後にはこの世にいなかったという現実、今思い返しても信じられず、どうして?なぜ?でいっぱいです。

初孫の予定日が6月初め、栃木に住んでいる長女に婿の立会出産をあきらめて、主人の入院している済生会病院での出産に臨む様頼みました。抗癌剤の治療が一区切りついた6月12日、前日生まれた初孫に目を細めながら、とりあえずの退院でした。

長女と孫が我が家に戻って来たのと入れ違いに四日間だけ希望を持って出勤した主人でしたが、退院後一週間目の検査の日、再入院となりました。

長期戦になりそうだから、あせらないで治療を受けるわーと覚悟を決めた主人でした。

生まれた孫を長女と見ながら、又二年前に立ちあげた仕事の代理店を、主人の看病の為にクローズさせてもらった後始末をしながらの病院通いの毎日でした。新婚の二女は、長女の出産の為に、又主人の看病の為に、私を手伝ってくれました。学生だった長男は夏休みを病室で過ごしてくれました。

7月の終わり、主人の容態が急変した時、ホスピスに移して頂きました。三年半前に逝った父がお世話になったホスピス病棟を、ホスピスの意味を知っている主人に何と説明しようか、とても悩みました。膵臓癌の末期症状に苦しむ現実との対峙でした。

知り合いの方から頂いたとびっきり美味しいスイカをガーゼを四重にして絞りこし、横のみで飲ませました。「美味しい!!」と言ってくれたあのひとこと。最後の食事となりました。

腸間膜に転移があり、再入院後から食事が摂れなくなっていた主人のしぼり出す様な「美味しい!!」に、スイカを下さった知人に唯々感謝でした。

8月5日の午後11:00過ぎ、時計を気にしている私に、二女が聞きました。「どうしたの?」
「うん、何でもないよ」何でもない事ではありませんでした。苦しんでいる主人に向かって心の中でつぶやいていました。
「パパ、もう少し我慢して、あともう少し。そしたらもういいよ」
主人の逝く日は8月6日と覚悟を決めていた私でした。単身赴任でお世話になった広島の記念の日。この日以外に主人の命日はないと思っていました

一年間だけ家族五人で暮らした大好きな街、広島。

一周忌の8月6日に、かつての仕事の部下の方が訪ねて下さり、話して下さいました。
「あの日会社に行くのに平和公園の横を歩いていました。祈りの鐘の音が、なぜかとても高く聞こえ耳に残りました。後で分かりました。部長が逝かれた後だったのですね。今日それをお伝えしたくて来させて頂きました」と、目にうっすらと涙を浮かべて話して下さいました。

沢山の心優しい方達に囲まれての60年の人生でした。あなたが優しかったから、素敵な方が周りにいて下さったのよね。私はあなたと夫婦でいられた事とてもありがたく感謝しています。
初孫は可愛いさかりの三才です。あの娘と遊ぶ事をどんなに楽しみにしていた事か。私一人が楽しみをもらってごめんなさいね。栃木で孫と遊ぶ時、東京の二女夫婦と過ごす時、又時折メールで会話する横浜の長男の後にも、必ずあなたの気配を感じます。母と二人で暮らす家中にも、常にあなたを感じます。いつもそばにいてくれてありがとう。栃木・東京・横浜そして福井。実家のある京都、又思いのいっぱいつまった広島と、日本全国あちこちを千の風になって、いつの日か私と一緒に旅をしましょうね。

あなたが逝った半年後の月命日の日に、新しい仕事を見つけ、生きがいとして頑張っている私が見えますか?子供達とは遠く離れていても、心はいつも一緒です。宝物を沢山置いていってくれてありがとう。私は今58才、何とか元気です。

いつの日か、千の風になってあなたと旅する日が来る事を信じています。いつの日か、ね。

<<一覧に戻る